風と木の詩


風と木の詩を最後まで読み終えました。
私はトーマの心臓の方がすきかな。
最後の方はセルジュがジルベールに心酔しすぎててあまり入りこめなかったかも。
最後まで読んではじめて風と木がジルベールとセルジュをあらわしていることを知りました。
たしかに、ジルベールはセルジュにとって彼を揺さぶるだけ揺さぶり過ぎ去って行く風のような存在だったのでしょう。
あの物語は破滅型の人生の典型のようなもので、マノン・レスコーと騎士デ・グリューの物語のようだと思いました。
セルジュの両親の恋が成功例の椿姫だとしたら、間違いなくジルベールとセルジュはマノンとデ・グリューでしょう。
マルグリット・ゴーティエとマノン・レスコーの最大の違いは愛と恋の違い。
アントンを愛するあまり身を引くことを選んだマルグリットと恋を渇望せずには居られないマノン。
デ・グリューを裏切り、他の男に堕ちてなお、デ・グリューに愛しているとささやける悪魔のような女性。
ジルベールは本当にマノンにそっくりだ。彼らはどこまでも自分に忠実で相手を思いやるなどと言うことはなかなかしない。
唯一の違いはマノンがグリューに自ら逃げることを求めたがジルベールは自らはそうしなかったというところだけのようだと思う。
われわれのような一般人には彼らの生き方は理解できない。
全てを投げ捨てて自分を愛してくれると言う恋人が身を粉にして働いているのに、自分だけのうのうと家に居るなどという事はなかなかできることではない。
しかし、彼らは知っているのだ。
それだけで恋人が満足するのだという事を。
それを受け入れるだけでもうそれは彼らの愛なのだと。
この手の物語はマノンやジルベールファムファタールだと言う人が多いが、彼らはセルジュやデ・グリューの犠牲者だったのではないかと思う。
もちろん、彼らがファムファタールだと言うことはまごうことなき事実なのだが。
セルジュもデ・グリューもファムファタールに出会って人生を破滅に導かれた、翻弄された被害者のように見えるが、しかし、かれらのその熱さ、恋に対する情熱は、偏愛であり、それを受け入れ得る相手がファムファタールしか居なかったと言うだけではないか。
ファムファタールに出会っていなかったとしたらどうか。
彼らは彼らの心の中にある情熱をもてあまし、違う相手をファムファタールにしていたのではないか。
とするとファムファタールを創るのは彼らのような情熱にたぎる青年だと言うことになる。


マノンもジルベールも逃げた先で死ぬわけだが、それは必然だったのだろう。
彼らは金がないと生きていけない、贅沢の亡者で、デ・グリューとセルジュにはそれをまかなってやるだけの金をかせぐ能力がない。
だからマノンやジルベールは金持ちに身を売ろうとする。
しかし、それは彼らを純真に愛してくれるデ・グリューとセルジュには厳しいことで、マノンやジルベールが彼らを愛していることがそれを阻むのである。
2人はそこで精神的に疲労する。だから死ぬわけである。
もし恋人達の愛を貫くならば、そこで彼らが死ななければ、もうほとんど心中しか道は残っていないという残酷な状態のおつり付きで。
もし、死ぬのがデ・グリューやセルジュだったらどうなのか。
間違いなくマノンもジルベール後追い自殺をするだろう。
しかし、グリューもセルジュもそうしない。彼らは生きようとする。
それを「強い」という一言ですまして良いのか。
そう言う点で私は彼らがデ・グリューとセルジュの被害者であると思うのだ。
あの物語のあと彼らはどうなったのか。
グリューはのうのうと田舎に帰り爵位をついで、妻を娶り、子供を作るのだろう。
それか修道院に入るかのどちらかだ。
セルジェはパットと結婚し、ピアニストになり社会的地位も築き、幸せに暮らすのだろう。
彼らの中にマノンやジルベールが生きていることは間違いないが、死という代償にしてはあまりに軽いのではないか。
それでも満足して死に行ったファムファタールの方がやはり被害者なのではないかと思う。